僕たちが生まれ育った日本の現代社会においては。かつての封建社会下で大衆が感じていたような理不尽さを味わうことは滅多にありません。
元々、戦後の日本では無宗教者がドンドン増えていましたが。特に、インターネットを使いこなし、情報を比較することに長けてきた比較的若い世代を中心に、宗教やスピリチュアルなど、科学で説明がつかない類のものを信じることは、なくなって来た傾向にあります。
かつては、「神」や「仏」を中心とした、宗教には、生まれながらにどうにもならない報われない、過酷な現実からの、「心の避難所」という役割があったわけです。今日、食事にありつけるかどうかも分からない。いつ戦争で命を落とすかも分からない。
そういう中で、「神様、仏様」に救済を求めて来たのです。けれども、今僕たちが生きる、現代社会では、住む場所に困るわけではない。食べるモノに困るわけでもない。インターネットを介して多くの人達と、胸の内を共有できるし、心が救われる言葉に巡り合うこともできる。
これから先の時代も、無宗教者的な方々は、ますます増えていくことは容易に想定できることです。一方で、見方を変えると、「理不尽さ」は、いまだに存在しています。それは、「資本主義社会」における、勝者と敗者という概念です。資本主義社会において、資本は誰しもに平等に分配されるわけではありません。
むしろ、資本は偏る性質があります。競争が前提で成り立つ世の中では勝者と敗者は、必ず生まれてしまうのです。例えば、世の中の資本は、上位2割のプレイヤーが、8割の資本を独占し。その他大勢の8割が、おこぼれ的な2割を床から拾い集めるという。一部の勝者が総取りしている構造になっていることが分かります。
今各々が、どちら側にいるかは異なるかもしれませんが。そういう状況下で、どう考え、どう行動するのか?「生き死に」とは別の、「哲学的な見地」から、各々の人生をより深く考えることが求められると思います。
「資本主義社会」のビジネスの勝ち方
「勝ち続ける人はもっと勝ち続ける構造」これは、「ケイタ式」「ロイ式」などの物販ビジネスなどでも、顕著に見られると思います。例えば、Amazon、eBay、楽天などのプラットフォームを通して商売をする際にも。購入者側は、より実績が評価として見える化されている存在を選ぶ傾向があります。
商品を提供するメーカーにしても、小売店にしても、ユーザーから購入対象として選択された対象は。その販売実績によって、さらに信頼性を高めて、さらに多くのユーザーが集まるようになる。と言った形で、「雪だるま式」に成長する。これが、「物販ビジネス」で言うところの、「軌道に乗る」状態です。
こうしたことは、資本主義経済のありとあらゆるところで発生していて。「お金があるところに、お金が集まる・・・」と言った現象の礎になっていることが分かります。「みんないっしょに仲良くお手々つないでランランラン」と言ったことは、お金にまつわるありとあらゆる分野では、起こり得ないものなのです。
だから、「ケイタ式」「ロイ式」などの「物販ビジネス」で、「修羅」になるためには。取り組みを開始した初期の頃に、一気にやり込み、高めることができると。まさに「雪だるま式」で、実績が積み上がるようになって、半年、1年、2年・・・短期間で勝ち上がることが可能になってくるというカラクリでもあるのです。
「銀行融資でお金を創る」でも、セオリー通りに、お金を借りれば借りる程に、ドンドン融資が積み重なると言った「雪だるま式」状態が発生します。勝てるようになると、勝ち続けられる。ココに乗れるかどうか?というのが、ビジネスにしても、銀行融資にしても、「修羅」になるためには、重要になってくる部分なのです。これが実体験として分かってしまうと、実は「修羅」になるのは、それほど難しいことではないと分かります。
「物理時空」から乖離した「データの世界」
僕たちが毎日プロテインやアミノ酸をしこたま飲みながら「筋トレ」をしたとしても。胸筋がボリュームアップして3メートルを超えたり。体重300KGのゴリゴリマッチョになれるなどということは。人間の体の仕組み的には起こりえません。
水や食料を蓄積・保管しようとしても、賞味期限がありますし、モノによっては、場所も取ることになるので、無限に蓄え続けることは絶対にできません。人間の身体だったり、食料だったり、物理時空上の重力や空間、時間といった法則に制限されるものであれば。上位層と、下位層の差はそれほど広がりません。
逆に、物余りの現代社会では、お金持ち程、カロリー制限を心がけていますし。必要な分の食材しか、手元におかないようにしている傾向が多いです。なるべく新鮮なものや、製造されたばかりの新しいものを、口に入れたいですからね。
賞味期限ギリギリだったり、超えているものなどは、手元に起きたくないわけです。一方で、「お金」という概念は、現代社会では、ドンドン物理時空からは、乖離していっています。昭和の時代は、お金を「現金」として持ち続ける方も多かったでしょうか。
近年であれば、クレジットカードや電子決済サービスなどが台頭してきたこともあり。「お金はデータである」という状態化がさらに加速しています。「データ」は、物理時空上で、見たり触れたりできないものであり。あくまでも、概念的なものです。
すると、身体や食べ物に見られたような物理法則は一切適用されません。だから、スケールメリットを活用することで、増殖させようと思えば、どこまででも増やすことができてしまいます。1,000万もデータ1億もデータ10億もデータ100億もデータ銀行通帳の中の、数字の桁が変わるだけです。
自ずと、資本主義社会における「資本格差」。持てる者と持たざる者の格差というものは、比較にならないほどの圧倒的なものになってきています。このお金の本質が分かってしまえば。一度大きな資本をつくることができて。減らさずに増やせる正しい株式投資の仕方が分かってしまえば。毎月の生活費などを引いていったとしても、維持継続自体は、それほど難しくありません。
「哲学的な領域」での「お金持ち」
5億円相当の米ドルを、年利約5%の米ドル定期預金に入れてしまうだけで。金利だけでも年間2,000万の収入を獲得可能です。年間2,000万の収入ともなれば、日本では、住むところ、乗る車、子どもの教育。かなりの高水準の生活が実現可能になります。
5億円を、株式投資で年間30%で運用できれば。年間1億5,000万の利益、税引き後でも年間1億2,000万。年間1億2,000万を衣食住に使おうとすると、逆に「使い切れない・・・」という状態に陥ります。
ある程度突き抜けてしまうと。「お金」というデータは、僕たちが「生きるために必要なもの」という概念から、ドンドン乖離してしまい。「お金持ち」という「哲学的な領域」での世界で生きることになります。
こうなってしまうと、ドンドン「生活」とは乖離したところが、主な活動の中心になってくると思います。どこまで上を目指すのか?すでに、生きるか?死ぬか?と言った、「生物としての生存」とは全く別の次元のお話になるので。自分の「欲しいモノ」「叶えたい願い」をどこまで自己設定できるか?「価値観」や「哲学」と言った概念のお話になって来るのです。
生物として生存するだけで良いのか?人並みの人生を送るだけで良いのか?人並みよりも上の選択肢のある人生を送りたいのか?「お金持ち」という哲学の領域でどこまでも上を目指したいのか?人によって、目指すところは様々だとは思いますが。「資本主義社会」においては、全ては自分で決めるしかありませんね。