ぼくがまだ若かった頃、「脱サラ」なんて言葉が巷にあふれていた。サラリーマンを辞めて、ラーメン屋とか焼き鳥屋とかを始める人が少なからずいた。たいていは真面目で、家族思いで、そして少しばかり夢見がちな人たちだった。
でも、現実というのはときどき、酷く無愛想なものだ。何千万円も初期投資をしても、売上が思うように伸びず、気がつけば赤字の深い穴の底でもがいている。借金を抱えて、結局またスーツを着て、サラリーマンに戻っていく。そんな話は、それこそ掃いて捨てるほどあった。
そして1995年、世界にWindows95というやつが現れて、状況は静かに変わり始めた。インターネットという新しい海が開かれ、そこに小さなボートを浮かべて漕ぎ出す人たちが出てきた。リアルな店を持たなくても、少しの資金で始められるビジネス。それは一見、とても自由で、夢が詰まっているように見えた。
だけど、よくよく見れば、その海はとても広くて、そして深く、時に冷たかった。時が経つにつれ、競争は激しくなり、波は高くなっていった。最初のうちは調子が良かった人も、途中で沈んでしまうことが珍しくなかった。インターネットの世界でも、結局はほんの一握りの人しか、生き残ることができなかった。つまり、起業とか独立とかいうものは、リアルでもネットでも、思っているよりずっと難しいということだ。
サラリーマンとして生きてきた人間が、自力で稼ぎ続けるというのは、まるで真冬の海に裸で飛び込むようなものだ。それでも、人は夢を見る。小舟に希望を託す。でも、この現実が分かっていないと、今目の前にある「ロイ式・ケイタ式」などの「少資本で稼げるビジネスモデル」がどれだけ意味と価値のあるものなのか?
そうしたチャンスの意味を本当に理解できない。ほんの少し壁にぶつかっただけで、「自分には向いていない」と舵を投げ出してしまう。でも彼らは知らない。もし、その一歩を諦めてしまったら、もう次は無いかもしれないということを。あとは岸に戻って、雇われるだけの人生を歩むしかないかもしれないということを。
トロピカルジュースの幻と、白い砂浜の遠さについて
たとえば、南国の白い砂浜に寝転がって、トロピカルジュースなんかを片手に、青く透き通る海を眺めている。BGMはボサノヴァで、潮風がほんの少し髪を揺らす。そのすぐ隣では、誰かがノートパソコンを広げて、なんとなく仕事をしているふりをしながら、実はもう、たいして働かなくても生活ができるくらいには稼げる仕組みを手に入れている・・・。
そんな風景が、ネットのどこかの広告には溢れている。でも、実際のところ、そんな光景はほとんどが夢か幻想のようなもので、多くの人は今朝もまた、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗って、職場という名の箱の中へと吸い込まれていく。朝の混雑したホームで、自販機の缶コーヒーを片手に、ため息まじりにスマホを眺めながら。サラリーマンという職業は、日本ではとても一般的で、今や働く人の8割以上がそのカテゴリーに属している。
多くは企業の一員として、時間と労力を差し出し、その見返りとしてお給料を得ている。これは社会の仕組みであり、避けがたい現実でもある。それでも、人はふと立ち止まって考える。「このままでいいのだろうか?」と。毎日、上司の視線を気にしながら働き、退勤後にコンビニで買った安ワインを飲み干して眠るだけの毎日。できることなら抜け出したい、と思うのも無理はない。
けれど、「起業」や「独立」という選択肢は、思っているよりもずっとずっと、重く、冷たく、そして骨の折れる道だ。もしもそれが簡単なものだったなら、誰もが今頃サングラスとビーチサンダルを買い込んで、ハワイあたりでトロピカルジュースを飲んでいるはずだ。
でも、そんな人はほんの一握りしかいない。なぜなら、自分でビジネスをつくって、それを続けていくというのは、波に逆らって海を泳ぐようなもので、ちょっとでも気を抜けばすぐに沈んでしまうからだ。資金もいる。知識もいる。胆力もいる。そして何より、続ける覚悟がいる。
それに比べれば、会社という仕組みに身を預け、与えられた仕事をこなして給料をもらう方が、はるかに簡単で安全だ。だからこそ、人はあえて満員電車に乗り込み、時には心をすり減らしながらも、そこにとどまり続ける。「起業・独立」という言葉には、たしかに甘い響きがある。
でもその実体は、トロピカルジュースのように甘くはない。むしろ、強く冷たい海の塩の味がする。そういう現実を知った上で、それでもなお、自分で進もうとする人だけが、本当の意味で何かを手に入れることができるのだと思う。ビーチは誰にでも開かれているけれど、そこにたどり着く道は、思っているよりもずっと長く、そして孤独なのだから。
光るスクリーンの向こうには、風も音もなかった
10年ほど前のことだ。「インターネットで誰もが、簡単お気楽に起業!」そんなスローガンが、ブログの見出しやSNSのタイムラインに、まるで春先のつくしのように次から次へと顔を出していた。起業は特別な人間だけのものではなく、パジャマ姿のままキッチンテーブルでカフェオレを飲みながらできる時代が来た・・・そんな希望に満ちた空気が、確かに漂っていた。
でも、物事というのはいつだって少しずつ明るさを失っていくものだ。最近では、「インターネット起業もなかなか大変らしい」という声を、ちらほらと聞くようになった。誰もが夢を見た時代の余韻は残りつつも、その夢がどこまで現実と結びついていたのか、多くの人が気づきはじめたのだと思う。
ビジネスとは、突き詰めればただ一つの問いに収束する。何を、誰に、どうやって売るか。それだけだ。自分の商品を売るか、他人の商品を売るか。その手段や媒体が「インターネット」になったとしても、基本的な構造は何も変わっていない。魔法のような何かが空中にふわりと漂っていて、それをひとつまみ取り出せば成功できる、なんてことはない。
Amazon、楽天、Yahoo!、eBay。あるいはFacebook、Instagram、Twitter、YouTube、TikTok。ブログやホームページ。結局のところ、どこかしらで人を集め、その人たちに商品やサービス、情報を届けて、きちんとお金を受け取る仕組みをつくらなければ、何も始まらない。
そして、その「仕組み」を構築するには、時間も、労力も、場合によってはお金さえも必要になる。途方もない数の試行錯誤と、終わりのないチューニング。それが「現実」だ。2025年の今、そのことを理解していない人はほとんどいないだろう。ぼくは2004年から、インターネットを介したビジネスに携わってきた。
数多くの事業者と出会い、言葉を交わし、手を取り合い、時には別れてきた。そうして築いてきた人脈と経験を振り返って思うのは、もし誰かに「才能も経験も特別ない人が、ゼロから始められるビジネスってありますか?」と聞かれたら・・・答えは、残念だけれど「ほとんどありません」になるということだ。
少なくとも、「寝転がってスマホをいじるだけで、いつの間にかお金が入ってくる」みたいなことは、あり得ない。100%、ない。夢見ることは悪くない。でも、夢を手に入れるには、ちゃんと目を覚まして歩き始めなければならない。現実の地面は硬くて、思ったよりも冷たいのだから。
最後に残された扉を、ゆっくりと開けてみる
もし、この世界のどこかに「寝転んだまま片手間で稼げるビジネス」なんてものが本当に存在するなら、きっと僕はそれを孔明弟にやらせていたと思う。孔明弟が「嫌だ」と言ったら、アルバイトを雇ってでもその仕組みを回していたはずだ。
僕はそれほどに現実的な人間だし、お金を稼ぐことに関しては、多少の手間を惜しまない主義だから。だけど現実には、今日この瞬間においても、そんな都合のいいビジネスはひとつとして存在しない。
インターネットを使って「モノ・サービス・情報」を販売する、いわゆる「ビジネス」は、魔法でもなんでもない。Amazonでも楽天でも、InstagramでもTikTokでも、どんな媒体を使うにしても、そこに人がいて、モノを売って、お金を得るためには、結局、汗をかいて構築しなければならない「仕組み」がある。
損益分岐点を越えるまでに必要なお金、時間、労力。それらは日々膨れ上がっているし、「利益を出し続ける」というのは、想像よりもずっと骨の折れる仕事だ。最近では、ゼロから立ち上げるということが、リアルな店舗を構えることとそう変わらないくらい、コストのかかる営みになってきている。
そんな中でも、たとえば「ロイ式」や「ケイタ式」と呼ばれる物販ビジネスは、比較的、まだ人間の手の届く範囲にある。少ない資本で始められて、特別なセンスもいらなくて、一度軌道に乗れば、それなりに継続性もある。だから僕は、それを勧めている。ときどき、「物販以外で何かおすすめはありませんか?」と聞かれることがある。
でも、答えは決まっている。「そんなものがあるなら、とうの昔に僕がやっているよ」と。起業や独立を「夢」として語ることは簡単だ。でも現実を見ずに夢ばかり見ていても、目の前にあるチャンスを見逃してしまう。成功している人の中には、もちろん物販以外の方法で勝ち抜いた人もいる。
けれど、彼らは特別な才能や実行力を備えた人たちで、そもそも会社員としても「無双」していたような存在なはずだ。彼らはサラリーマンの限界に退屈し、もう一歩先の世界へ飛び出しただけだ。もはや枠に収まりきらなくなった力が、独立という形をとって溢れ出した。
それは「逃げるため」ではなく、「抑えきれない何か」に突き動かされた結果だ。だから、本当のところはこう言うべきなんだろう。「物販しかないんですか?」じゃなくて、「あなたには今、物販しかないんじゃないですか?」と。実力の輪郭が見えていないまま、ふわりと何か他の「良さげ」なものを探しても、多分それは見つからない。少なくとも僕のところには情報が来ていない。
もし本当に存在するなら、僕は100万円でも1,000万円でも出して、その情報を買い取っている。だからこそ、現実を見つめ直すべきなのだ。学歴も職歴も年齢も性別も問わず、真面目に取り組めば結果が出る。
そんなモデルが目の前にあるなら、まずはそこに集中すべきだと思う。世界は残酷で、どこか美しい。でもその美しさに触れるには、まず自分の足で歩き出さなければならない。海辺に転がるトロピカルジュースは、誰かが流した汗の上にしか存在しないのだから。
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